国語と日本語は、似てはいますが別のものです。
日本国内で、日本人の両親の元で、生まれ育った子供は、
小学校に入る時すでに約5000の語彙を修得していると聞いたことがあります。
諸説あるにしても、多くの語彙を修得していることに間違いはありません。
多くの知識を持った子供たちが、学校に入学して、すでに乱雑に頭の中に入っている
知識を整理しながら、更に新しい知識を補充していくのが、国語です。
一方、日本以外の国で、日本人でない両親の元で育った子供、あるいは成人には、
日本語の知識が全くありません。この状態からから学ぶのが、日本語なのです。
日本人の目から見たら、実に簡単に思えることでも、外国人から見た場合、
とても難しいことが多々あります。
立場を変えて、私たちが例えば、馴染みの薄いアラビア語を勉強しようと思ったとき
どうであるかを考えれば、明白です。
小学校1年の国語の教科書は、とても難しいのです。
何年か前に見た記憶で書きますので、ちょっとあやふやですが、
最初のほうに、次の文がありました。
みえた みえた うみがみえた
この『みえた』の意味ですが、「海がみたいなぁ。まだかなぁ。」と期待していて、
その願望が叶ったということです。
日本人の子供には説明しなくても、この言葉の意味はわかります。
ところが、日本語学習者にとっては、
たとえ初級日本語をすでに300時間履修した場合でも、まだ学習してない項目です。
初級日本語では、『た型』は過去形、正確には動作が完了した状態であると学んでいます。
日本ですでに生活していて、日本語のシャワーを浴びていて、すんなり理解してしまう
学習者ももちろんあるでしょうけれど、結構難しいかもしれません。
難しいだろうという認識に立って、指導するのが日本語教育なのだと思っています。
国語と日本語は、学習者が違うのですから、当然内容も違うものなのです。 |
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