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動詞関連(13)
日本語教育では、五段活用動詞をTグループ、一段活用動詞をUグループ、
『くる』『する』をVグループと呼ぶことがあります。
里香子
日 本
130
打つ」うつ ・ 「打つ」ぶつ ・ 「どやす」 ・ 「どつく」の違いについてとか
「叩く」と「なぐる」の違いについてとか、よく分かりません。

「打つ」うつ ・「打つ」ぶつ ・「どやす」・「どつく」・「叩く」・「なぐる」は
共通の意味としては「叩く」や「うつ」になると思いますが・・・
具体的に違いを説明する時に、ある地域だけ使われる方言なのか、
又、俗的な言い方、標準語という違いもあるのか知りたいです。

「打つ」ぶつ と「殴る」は、
「叩く・うつ」の度合いが強いと説明してもよいのかどうか・・・
分かり易い説明の仕方を教えていただきたいのですが、
よろしくお願いします。
『ぶつ』は、『うつ』の音が転じたもの。
『叩く』『なぐる』『ぶつ』『うつ』は、場合によって意味は同じと考えていいでしょう。
でも、何か道具(例えば『平手』とか『拳』とか『棒』とか『鞭』とか)を使って
ある対象(例えば、人間の体の部分であったり、動物であったり)に対する動作ですから、
なかなか一口には言えませんね。
日本語学習者さんにうまく使えるようになってもらうには、例を引いてみるのはどうでしょうか。
(○△×は、一般的な場合にどう使うかという私の主観です。)
例(1):
鞭で打つ。
鞭で叩く。
鞭で殴る。


×
拳で打つ。
拳で叩く。
拳で殴る。
×

拳骨で打つ。
拳骨で叩く。
拳骨で殴る。
×
×
平手で打つ。
平手で叩く。
平手で殴る。


棒で打つ。
棒で叩く。
棒で殴る。


でも、実際には次のような使い方をする場合もあります。
例(2):
白い球を棒で打つスポーツを見たことがある。
洗濯物を棒で叩く。
頭を棒で殴るなどの暴力を働いた。
相手チームの選手の胸を拳骨で打った。(サッカーの試合で)
夫の頬を軽く拳骨で叩いた。
腹がたったので、相手の頭を拳骨で殴った。

『どやす』の一番の意味は『どなりつける』ですね。
「背中をどやされて、ハッとしました。」という言い方もありますが・・・。
『どつく』は、大阪方言ではないかと思います。
標準語って、私にとって具体的にどういうものなのか、
イマイチ分からないものの一つです。

『打つ』『叩く』『殴る』の中で、『殴る』が一番相手のダメージが大きいだろうとは思いますが、
状況にもよりますし、こういうことは、考えに個人差があって断言は難しいです。
一般論ですが、もうこうなったら仕方ありません。
自分の母語話者としての直感を信じて、エイヤッと言うしかありません。
賛成してくれる人もあれば、「違うよ。」と言う人もあるでしょう。
日本語教師の辛いところです。

いつも思うことですが、
誰かが、「これだったら間違いないよ!」と言ってくれたら、どれだけ安心できるでしょう。
でも、それは、なかなかないことだと思います。
自分が日本語の母語話者である、
ということに自信を持つことしかないのではないでしょうか。

里香子
日 本
129
韓国に住んで12年になりますが韓国人に日本語を教えています。
「謝る」と「詫びる」の違いについて、微妙なニュアンスの違い、
又は使い方の違いを分かりやすく教える方法をお願いします。

私の次のように考えます。
同じ意味ですがニュアンスの違いとしては
「謝る」は率直に許しを請う場合に普段使われる口語的言葉であり、
「詫びる」は自分の困惑の情を表す意が強く、
改まった言い方であると理解しています。
しかし、実際に使う時に日本人は自然に使い分けていますが、
外国人には今ひとつピンとこないようです。
仰るとおりなので、殆ど付け加えることがありません。
『謝る』も『詫びる』も同じ意味だと考えて問題ないでしょう。
『詫びる』は文章語的な言葉なので、日常会話ではあまり使いませんが、
改まった感じの文章の中では使われることがあります。
でも、文章の中であっても、動詞『詫びる』は、 若い人はあまり使わない言葉です。
「昨日遅刻したので、先生に謝りました。」と書くことはあっても、
「昨日遅刻したので、先生に詫びました。」とは、余りあまり書かないでしょう。

名詞『詫び』を使った言い方の方が、動詞『詫びる』よりも多く使われるように思います。
『詫びを入れる』『詫びを言う』『お詫びする』といった言い方は、
会話の中でもよく耳にします。
『謝る』より『お詫びする』の方が心がこもっているように思えて、私は好きです。
でもこれも、やはり若い人はあまり使わないように思います。

自分で「これでいいのかなぁ。」と不安に思いながら説明すると、
学習者さんにその不安が伝染して、分かってもらえないという経験が何度もありました。
日本語の母語話者であるということに自信を持って指導にあたられるのが、一番だと思います。

cjcho
日本語ネイティブ
128
私は埋蔵文化財の発掘調査に従事しています。
発掘終了後には報告書を書きますが、その際、多くの調査担当者は、
客観性を装 うために、調査結果を現在形で書きます。
例えば、 (1)
(2)
「第3層は古墳時代の須恵器を含む。」
「第3層には古墳時代の須恵器が含まれる。」
です。
しかし、発掘現場は
掘り終われば開発工事が入って撹乱してしまいますので、
現場を再現できることはほとんどありませんから、
検証できない事象は、過去形で書 くべきだと私は考えています。
私のような考え方を持つ人は少数ですが、考え方は認められています。

質問させていただいた内容は、
(1)や(2)を過去形で表現するときの問題です。
(1)
(1)
「・・・含んだ。」
「・・・含んでいた。」
(2)
(2)
「・・・含まれた。」
「・・・含まれていた。」
なのか、
とすべきなのか、です。

ご意見をお願いいたします。
「・・・含む。」「・・・含まれる。」の過去表現は、「・・・含んだ。」「・・・含まれた。」
「・・・含んでいる。」「・・・含まれている。」の過去表現は、「・・・含んでいた。」「・・・含まれていた。」
となるんでしょう。

この調査報告において、
そもそも「AはBを含む。」という表現がおかしいと言えばおかしい気がします。
「AはBを含んでいる。」の方が違和感が少ないように思います。
でも、だからと言って「AはBを含む。」を間違いだと言っているのではありません。
『含んでいる』の意味で『含む』を使うこともありますし、
『含んでいる』より『含む』の方が短くて簡便です。
それに、専門分野には、その専門分野特有の表現・言い回しがあることもあります。

しかし、過去表現になると、
「第3層は古墳時代の須恵器を含んだ。」
「第3層には古墳時代の須恵器が含まれた。」
よりも
「第3層は古墳時代の須恵器を含んでいた。」
「第3層には古墳時代の須恵器が含まれていた。」
の方が
落ち着きが良いということだと思います。

文法論というより、どちらが耳慣れていて違和感が少ないか?なんでしょうね。

あ き
日本語歴:20年
中 国
127
日本語を教えている中国人です。
日本語と付き合ってかれこれ20年にもなるわけですが、
まだまだ学生からの質問に困っている毎日です。

今日も学生から、
薄れると薄らぐの意味の違いと使い分けについて聞かれました。
辞書で調べてみると、
どうも同じ文脈で使われているように書いてあるんですが、
違う形として書いてあるからには、どこかに違いがあるはずだと思います。
教えていただけないでしょうか。  
日本語の母語話者の日本語教師でも、学習者さんからの質問に困ることは多々あります。
たいへんですよね。ふー!

薄れる』は、文語の『薄る』が口語に変化したもの。
『薄らぐ』は、イ形容詞『うすい』の語幹に『ら』がついてできたナ形容詞『うすら』に、
更に『ぐ』がついて動詞になったと思われていますが、 はっきりとはしていません。
(ナ形容詞『うすら』は、現代では使われていません。)

出来てきた歴史が違うけれど、現代では 『薄れる』『薄らぐ』『薄くなる』は殆ど同じ意味で、
どれを使っても問題ないような場合が多いです。

次のようなことは言えると思います。
(しかし、これも同じ日本人でも個人差があるようです。困りますね)
(1) 塩気が薄れる × (2) 色彩 黄色が薄れる
塩気が薄らぐ × 黄色が薄らぐ ×
塩気が薄くなる 黄色が薄くなる

miki
日 本
126
翻訳家を目指して勉強中の者です。

さて、ある外国語の文章を「腹をすかせた子どもたち」と
訳したのですが、「すかせた」が正しいのか
「すかした」のほうがいいのか、わからなくなってしまいました。

いくつか辞典類を調べてみたのですが、例文では「すかせた」が
多いものの、なぜそうなるのかという答えを見つけ出せず、
思い切ってメールを差し上げることにいたしました。

ご指導いただければ有り難く存じます。
動詞『すかす』と『すかせる』について考えてみましょう。
『すく』は自動詞ですが、対応する他動詞は『すかす』です。
「お腹がすく。」→「お腹をすかす。」

『すかせる』ですが、『すく』の使役形だと考えるのが妥当でしょう。
「お腹がすく。」→「お腹をすかせる。」

「お腹をすかす。」と「お腹をすかせる。」は、意味は同じと考えて良いと思います。
(ただ、対応する他動詞と使役形が、どの動詞においても
意味が同じになるとは限らないので要注意です。)

『お腹をすかせた』の方が多いのはたまたまのことで、
だから『お腹をすかせた』の方がより正しい使い方だということはないと思います。

まろん
日 本
125
現役の日本語教師(今年で3年目)です。
学校で使用している教科書は「みんなの日本語1・2」ですが、
その中から疑問点をお聞きしたいと思います。

37課の受身のところで出てくる例ですが、「行われます」と「開かれます」の
違いをどうやって教えたらいいかわかりません。
教科書には「大阪で展覧会が開かれます」と「国際会議が行われます」が
例文として挙がっているのですが、
いつもここを教えるときにいい教え方が見つからず迷います。

「行われます」は「する」の意味合いが強く、みんなでするもの、
公の場でするものなどに使えるかと思うのですが、
「開かれます」との違いをどう説明していいかわかりません。 

「行われます」と「開かれます」の違いについて、
何かいい教え方があれば、ぜひ教えていただけたらと思います。
受身形で違いを考えるより、まずは辞書形で違いを考えてみましょう。
『行う』は、どちらかと言えば、閉じられた関係の間で何かを行う場合に使い、
『開く』は、どちらかと言えば、外に向かって文字通り開かれた関係の間で
何かを行う場合に使うという気がしています。

「大阪で展覧会が行われます。」よりも「大阪で展覧会が開かれます。」の方が、
また、「近所の小学校で運動会が開かれます。」よりも
「近所の小学校で運動会が行われます。」の方が
私には落ち着きがよく思えます。

辞書によっては、『行う』『開く』『開催する』等、
意味に違いがないとしているものもあるようです。
(すみません。十分調べたわけではありません。)

受身形の文で、
「国際会議が行われます。」「国際会議が開かれます。」では、
どちらにしようか迷うところで、両方がOKのように思えます。
それは、国際会議というものが、閉じられたものなのか
開かれたものなのかは、考え方によるからではないでしょうか。

もっと明確な例文を選んでほしいとは思うのですが、
でも、とても信頼されている教科書に書かれている内容ですので、
取り敢えずは、『行われる』と『開かれる』は
置き換え可能だとして、あまり深くは触れずにいます。

更に突っ込んで質問してくる学習者さんには、上記のような私の意見を述べます。
しかし、上記は私見であって、他の人の意見を聞いてみたことがありません。
これを機会に、皆さまのご意見を伺ってみたいと思っています。

Suzuki
日 本
124
ボランティアで日本語を教えています。
分からないことがたくさんあるのですが、
最近考えてしまったことについて質問させていただきます。

可能形、例えば「食べられる」「泳げる」と
「食べることができる」「泳ぐことができる」とでは、意味は同じなのでしょうか。
何か違うような気がするのですが、よく分かりません。

ご意見をお聞かせください。
うーーーん。
「意味は同じである。でも『食べられる』は口語的、『食べることができる』は文語的で、
雰囲気が違う。」と、私はしています。
日本語指導の場合は、それで問題ないとは思っていますが、
でも、ほんの少し小骨が喉にひっかかっているような気もしています。

皆様からのご意見を伺いたいと思います。

中 国
日本語歴:7年
123
今、中国の大学で、日本語を教えています。
先日、 学生に「〜ことにする」と「〜ことにした」の違いはなんですか
って聞かれました。
文法的には、よく「〜ことにする」や「〜ことにしている」や
「〜ことになる」などは区別されますが、
「〜ことにする」と「〜ことにした」の違いについては
あまり気付かなかったです。

私も考えてみたんですが、
違いはやっぱり「する」と「した」の間にあるじゃないかと思って、
「ことにする」は話すとき決めることで、
「ことにした」のほうは話す前にもう決めたことだろうか
と思うようになりました。

樹さんはどうお考えでしょうか。
聞かせていただければ、幸いだと思います。
メールをいただいてお返事したのですが、エラーだということでメールが戻ってきます。
連絡できないので、直接ここに書き込みします。
林さんのお目に留まればよいなぁと思いつつ。

簡単に説明するのなら、林さんのお考えで良いと思います。
でも、もう少し詳しく考えてみましたので、よかったら参考になさってください。

『ことにする』
(1)話している間に心が決まった場合
  例:そうねぇ。迷っているんだけれど、でも来週のパーティーに行くことにします。
(2)話す前にもう決めたけれど、まだ実行していない場合
  例:来週のパーティーに行くことにします。
    (未だ少し迷っている等の気持ちが含まります。)

『ことにした』
(3)話す前にもう決めたけれど、まだ実行していない場合
  例:来週のパーティーに行くことにしました。
    (きっぱりとした気持ちで述べています。)
(4)過去に決めたことで、過去に実行した。(あるいは実行しなかった。)
  例:おやつは食べないことにしました。でも、三日坊主でした。

さむがり
日 本
122
中国人の友人から、よく日本語についての質問を受けます。
私なりに答えておりましたが
先日どうにもうまく答えられない質問がありました。
お知恵をお貸しください。

ミーティングの終了時に、
「それではこれでミーティングをおわります」 という宣言を
よく司会者がします。
その中国人はこの「おわります。」は 自動詞なので、
「ミーティングがおわります」というか、
さもなくば、 他動詞を用いて「ミーティングをおえます」というのが
正しいのでは ないかというのです。

小生、考えるに、
「我々がミーティングをおえます」といったのでは、 少々堅すぎる、
「ミーティングがおわります」といったのでは無責任すぎる。
そこで中間的表現になってしまった。
というところなのですが、 本当のところどうなのでしょうか。
厳密にいうと「ミーティングをおえます。」となります。
でも、『終わる』は本来自動詞ですけれど、 他動詞として使うことも最近は認知されています。
「それではこれでミーティングをおわります。」は、OKでしょう。

「これでミーティングをおわります。」という言い方についてのご考察ですが、
読ませていただいて、なるほど!と思いました。
『本当のところ』はどうなのか、明言できる知識がないのですが、
本来誤用であったものが、多くの人に使われるようになって、 定着したのだと思います。

鈴 蘭
日 本
121
最近個人授業で日本語を教え始めたのですが、
返事ができない質問を受けてしまいました。

それは受身文の「私の財布が盗まれました」が、
間違いか間違いでないかということです。
私は、「私は財布を盗まれました」が正しいと答えたのですが、
その人は、「日本人の友達に聞いたら、『私の財布が盗まれました』も
間違いではないと言っていた」と言って譲りません。

どのように答えたら良いのか、アドバイスをお願いします。
日本語は、非情物は主語にならないという伝統があります。
非情物を主語にしないため、「私は財布を盗まれました。」は伝統的な文型です。
ところが、明治に入って鎖国をやめた日本に、外国語がどんどん入ってきました。
非情物が主語になる外国語の文を直訳した結果、
私たちの伝統的な日本語の形が、変わってしまった部分もあります。

「私は財布を盗まれました。」という文型は、頑固に残っていますが、
例えば英語の直訳文に慣れた人が、
「私の財布が盗まれました。」を問題ないとするのは、十分あり得ることです。
伝統的な日本語の文型として、まずこの形をしっかり覚えてもらいたいと思うので、
受身を導入する段階では、
「私は財布を盗まれました。」を覚えてくださいと、私は言い切ります。
学習が進んだ人から、「私の財布が盗まれました。」も問題ないのではないか?
と質問を受けたら、上記日本語の歴史のようなことを話します。

因みに、「誰の財布が盗まれたのですか?」という質問の答えは
「私の財布が盗まれました。」です。この場合は、OKです。



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