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 形容詞関連(6)
日本語教育の世界では、形容詞をイ形容詞、形容動詞をナ形容詞と呼びます。
ここでは、日本語教育の現場で使う言葉も使います。
木 全
日 本
60
デザイナーを生業としており、デザイン学校で非常勤講師もしています。
日本人が身近に感じている色があります。
「白・黒・赤・青・茶色・黄色」の六色です。
それには言語学的な理由があり、形容詞になる色は
この六色だけだからです。
「白い・黒い・赤い・青い・茶色い・黄色い」 他の色は形容詞になりません。
「白い・黒い・赤い・青い」は「白き・暗き・明るい・淡い」が語源だといわれる
先史時代からの言葉で、
「茶色い・黄色い」は江戸時代にできたといわれています。

そこで質問です。
上の六色が身近に使われたという根拠があるのでしょうか?

例えば
「頭が真っ白になる」(頭の中が白くなるはずはありません)
「腹黒い」(お腹の中が黒くなることはありません)
「真っ赤なウソ」(赤いウソなんてありません)
「青春」(青い春の意味もわかりませんが、
     それが「若さ」を表す理由はありません)
「黄色い声」(声に色はありません)
というわけで、「白い・黒い・赤い・青い・黄色い」に関しては、
確かに言葉として、色自体のイメージを超えて
身近に使われている事例があるのですが、
「茶色い」につ いては、そのような事例が見当たりません。
もし、「茶色い」に関して色自体のイメージを超えて
身近に使われている事例があれば教えていただきたく。
『茶色い』が色のイメージを越えて使われている例はないように思います。

『茶色』は、文字通り『茶』の色なのです。
昔『茶』は、中国から輸入していました。
当時のお茶は、蒸して固めたもので、
現代の私たちがイメージする『チョコレート色』をしていました。
蒸して固めたものを削ってお湯で煮出して飲んでいたそうです。

>『茶色い・黄色い』は江戸時代にできたといわれています。

そうなんですか。知りませんでした。
江戸時代、緑色の抹茶は当然あったわけですが、
現代で、一般に飲まれている葉の緑茶は、
江戸時代にすでに庶民のものとしてあったのでしょうか。
もしあったとすると、『茶色』と実際の色とは大幅に違ったことになります。

なんだかその辺りが『茶色い』が色のイメージを越えて使われている例がないことに
繋がるようにも思えるのですが、よく分かりません。

余談ですが、『黄』というのは、先端に火を付けた矢に、
バランスをとるために錘がつけてあったという
象形文字から生まれたものだと聞いたことがあります。

熊峰
中 国
日本語歴:10年
59
好きだの使い方についての質問です。
「---は---が好きだ」という形で一般的です、例えば:私は王さんが好きです。
でも、教科書の中で「私が王さんを好きなのは、王さんが親切の人だからだ」
という例文を見ました。
意味は分かりますが、文法上、形容動詞の前に「を」を使うのは初めてです。
ほかの形容動詞はこういう使い方はありますか。
説明していただけないでしょう か。
『私が王さんが好きなのは』と言わないというわけではありません。
その教科書の例文では、『が』が2回重なるのを避けているのだと思います。

他にもあるかもしれませんが、今のところ『好き』『嫌い』だけしか 思いつきません。
『好き』『嫌い』は、『〜を好く』『〜を嫌う』という他動詞からきているので
『を』を使うことに違和感がないとも考えられます。

『王さんが絵が上手なのは』と『上手』『下手』の場合は、『が』を重ねます。

中 村
日 本
58
ボランティアで日本語を教えています。
先日、韓国人の女性と携帯メールで やり取りをしていた時に、
疑問に感じたことがあり、 メールをお送りさせていただきました。

お伺いしたいのは、「○○しやすい」という 言葉の使い方についてです。
彼女が 「説明が分かりやすかった」と言いたいところを
「説明が知りやすかった」というように使用してきたため、
私は違和感を感 じました。
不自然な表現である事を指摘したのですが、
どうして不自然なのか、いくら考えても分かりません。
「分かりやすかったです」 「書きやすかったです」
「利用しやすい」 「けんかをしやすい」 等々、
「○○しやすい」「○○しやすかった」という 表現は、
動詞に続くフレーズとして 日常的に使われていると思うのですが、
なぜ「知りやすい」とは言わないのでしょうか?

また、「知りやすい」のように、
「しやすい」と同時に使うと不自然なフレーズはあるのでしょうか?
『やすい』が動詞のマス形についた場合、二つ意味があって、
(1)意図がある動詞につくと、『簡単だ』
(2)意図のない動詞につくと、『傾向がある』 となります。

「説明が知りやすかった。」だと、私も明らかに違和感を覚えます。
「説明が分かりやすかった。」の場合は、『簡単だった』の意味で、
一般的には、『知る』は意図のない動詞として使われることが多い
と説明してあげたらどうでしょうか。

『やすい』が動詞のマス形についた場合、(1)と(2)と二つ意味があるのですが、
同じ動詞でも、(1)になったり(2)になったりすることもありますね。
「あの人は、そういう情報を知りやすい立場にいる。」などは、『簡単だ』の意味になります。

最後のご質問に関しては、上記を参考にしてお考えいただけたら!と思います。

中村さんから、再度メールをいただきました。
意図のある動詞の使い方
「飲みやすい」「話しやすい」「食べやすい」「歌いやすい」
「閉めやすい」

意図のない動詞の使い方
「滑りやすい」「転びやすい」「迷いやすい」「間違いやすい」
「閉まりやすい」

意図のある動詞のうち上4つは、「簡単だ」という意味の通り、
明るい動詞がたくさん出てきました。
しかし、意図のない動詞のうち上4つは、「意図せずに、結果そうなってしまった」
というニュアンスが強く、 ネガティブな動詞が思い浮かびます。

考えていて一番面白かったのは 「閉める」という言葉についてですが、
「(私が)閉めやすい」のか、「(ドアが)閉まりやすい」の かによって、全く意味が異なるんですね。

中 国
日本語歴:2年
57
「煩わしい」と「めんどう」の違いについて教えて下さい。
前者は「何かしたら、不愉快と感じる」という意味だと思って、
後者は「ただ段取りが多い」という意味だと思います。
でも、日常会話の中で前者はあまり使いませんが、
そういう考えは正しいか正しくないか分かりません。
『煩わしい』と『めんどう』(ナ形容詞)は、ほとんどの場合置き換え可能だと思います。
しかし、『煩わしい』は精神的に負担が多く、『面倒』は手間暇がかかる、という
ニュアンスの違いがあるかもしれません。

個人差があるとは思いますが、私は『煩わしい』を日常会話でも使います。

唱 子
日 本
56
「兎追いしあの山、 小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、 忘れがたき故郷。」
という文部省唱歌があります。

「あの山」と「かの川」の、「あの」と「かの」では、
意味に違いがあるのでしょうか。
「兎追いしかの山、 小鮒釣りしかの川」と両方ともに『かの』を使う場合もあるようです。

私は、『あの』も『かの』も意味に違いはないと思っています。
ただ、『かの』は文語表現で、『あの』は口語表現だという違いはあるようです。

楊雲鵬
中 国
日本語歴:1年半
55
質問は「眠い」と「眠たい」の区別です。
自分の理解は、「眠い」は「寝たい様子を表わす」、
「眠たい」は「寝たいという心理状態を表す」です。
難しく考えないで下さい。
どちらも状況は同じです。

なぜ、同じ状況なのに二通りの言い方があるかというと、
古文に『眠し』と『眠たし』があって、『眠し』→『眠い』、『眠たし』→『眠たい』
と変化したからです。

私の感じ方では、『眠たい』の方がややくだけた感じがあります。
『眠りたい』という願望の表現があり、
日本語の母語話者でも、『眠たい』は『眠りたい』から派生したものだと思うこともあります。
その結果、単なる状態というより少し意思が入っている感じがしてしまったりします。

私は、改まった文章を書くときは、どちらかというと『眠い』を使うことが多いです。

楊雲鵬
中 国
日本語歴:1年半
54
最近、「極まりない」という単語を勉強しました。
この単語は形容詞と書いてありますが、
使用する時、接尾語のほうがいいと思いました。
例えば、不健全極まりない。この質問、よろしくお願いします。
日本人が国語を勉強するときは、『ない』は接尾語だとしています。
でも、例えば『極まりない』のように、
『ない』がついて 一語として認知されるようになった言葉は、
形容詞だとしても OKだと思います。

動詞『極まる』のマス形+接尾語『ない』の方が良いと考える人がいても
それはそれでかまわないと思います。
因みに、私は『形容詞』であるとしています。

『不健全極まりない』ですが、『とても、とても不健全だ』という意味です。

Aki
日 本
53
「あたらしい」と「あらた」についての質問です。
形容動詞「あらた」が形容詞「あらたしい」になって、
発音上の不都合で「あたらしい」になったのではと思うのですが、
それで正しいでしょうか。
以前、どこかで読んだことなのですが、
『あたらし』も『あらたし』も語源は諸説あって、別物だそうです。
語源となった漢字もいく通りかあって、これだと決定できるものはないそうです。
意味も現代とは、かなり違っていたとか。
後になって両方に『新』という漢字を当て、意味も同じになってきたそうです。

ところが、それとは別に、Akiさんがおっしゃるように
『あたらし』と『あらたし』が混用された結果
『新しい』と『新たな』ができたという説もあるようです。

風林火山
日 本
52
大河ドラマの上杉謙信の台詞に、
「その決意をもって二心なきことを毘沙門天にむかい誓うは不要なり。」
というのがありました。
この「不要」を「無用」に置き換えた方が
落ち着きが良い気がしますが、いかがでしょうか。
『無用』は『役に立たない』、『不要』は『必要ない』という意味合いが強いので、
やはり「不要なり。」の方が良いように思います。

永井美材さんから、二度ご意見をいただきました。
(1) 「その決意をもって二心なきことを毘沙門天にむかい誓うは不要なり。」
この台詞では、私も、『不要なり』が自然だと思います。
ただ、『無用』には『天地無用』のように『…してはいけない』という禁止の意味もありますね。
(集英社 国語辞典 第二版 無用のB)
最近、日本郵便や企業からの封書で『転送不要』をよく見かけます。
受取人の受取資格に宛先地での居住が条件付けられている封書なのにです。
(本人限定受取郵便など) 書くなら『転送無用』だと思うのですが。
(2) 「その決意をもって二心なきことを毘沙門天にむかい誓うは不要なり。」 を再考いたしました。
話者が上杉謙信なので、やはり『無用』かと。
語感が与えるイメージも重視しなければなりませんね。
武将ですから威厳と強さといった点で『無用』が適切と判断いたしました。
『フ』より『ム』のほうが鋭さを孕んで聞こえますし。 『心配無用!』もそうだと思います。
『落ち着きが良い』とされた質問者の感性は素晴らしいです。

ヤコピさんからご意見をいただきました。
どちらが良いかという以前に、台詞が違っています。
「毘沙門天にむかい」ではなく「毘沙門堂にむかい」であり、
更にこの後に「我こそが、 我こそが毘沙門天なり」と続きます。

つまり、わざわざ毘沙門堂に誓う必要などはない、
なぜなら自分こそが毘沙門天だからだ、という檄になります。

もし質問者が、この台詞は神仏に頼る心を戒めたものであり
禁止の意味で「無用」が良いと考えたのなら、
解釈が違っていることになります。

但し、「不要」は明治以降の使われ方なので、
この時代であれば「不用」のほうが適切ですが。

ヒラヤマ
日 本
51
海外のペンフレンドとお互いの表現を勉強しています。
形容詞 「忙しい」「楽しい」にク形がついた 
「忙しく」「楽しく」の品詞は何になるのでしょうか。
教えていただきたい。
学校文法では、形容詞の連用形としているようです。
私が日本語を教えるときには、副詞扱いにしていますが、
特に必要がない限り、副詞という言葉は出しません。
日本語教師により、それぞれの考えがあるように思います。



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