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助動詞関連いろいろ(1)】【いろいろ(2)】【いろいろ(3)表記関連

 文の構成(6)
yuki_trcabvdf
日 本
60
ボランティアで日本語をアメリカ人の中級者レベルの方に教えています。
英語は日常会話程度話します。
生徒さんが、ホームステイ先で次のような会話を耳にし、
何とも不思議な気持ちになったそうです。
お父さんが「明日おそくなる」とお母さんに向かって言ったらしいのですが、
明日=tomorrow おそい、late,slowという意味なのに、
この文で会話が成り立っているということに疑問を感じたようです。
主語などが省略されているということは説明できそうなのですが、
もう少し文の構造を詳しく説明できたら・・・と思います。
主題、助詞などを用いてのいい説明の仕方があれば、
アドバイス頂きたいと思います。
「明日、私はおそくなる。」という文で
『私は』が省略されているだけのことだと思うのですがーーー。
日本語は、言わなくても分かることは省略する言語であるということ、
そして、英語の文法とはかなり違う点があるということをよく理解していただくしかないと思います。

Dmitry
ロシア
日本語歴:2年半
59
新しいSFの本を読み始めました。
「狭い部屋を見回したが、これといった発見はなかった」
の文章の「これといっ た」の意味のこと、教えて下さい。
その代わりに何の言葉を置けますか?
外国語で本を読むのは大変なことだと思います。
お尋ねの件は、『特別な』『何か注目に値するような』でしょうか。

まだまだ新米
日 本
58
日本語教師2年目の者です。
教材の穴埋め問題で
「私が〜と話したが、友達は誰も信(    )」
と言う物がありました。
すんなり入る答えとしては「信(じなかった)」が良いと思います
が、学生目線の質問として「信(じられなかった)」はどうか?
と言うことを考えたとき答えが分からなくなってしまいました。
これは、言いますか?
例えば、
A●
B●
友達は誰もその話を信じなかった
友達は誰もその話が信じられなかった
など「その話」を入れた場合は
正しい文(変ではない)とはっきり思います。はっきり分かります。

しかし、
C●
D●
友達は誰も私を信じなかった
友達は誰も私が信じられなかった
と「私」にするとDが変な感じのような・・・。
ただ、Dの「誰も」を「みんな」にすれば変ではないと思います。

また主語が「私」になると
E● 私は誰も信じなかった/信じられなかった

問題の所在がどこにあるのでしょう。
「誰も」でしょうか?主語でしょうか?
目的語でしょうか?「信じる」という動詞でしょうか??

いくつか例文をいくつか作ってみて私が一番思うのは
「誰も」という表現の用法(ルール)として、使えないのかなぁと思いました。
「を信じる」「が信じる」をこの場合どのように選ぶか、
と言うことも考えましたが、目下混乱中です。
(1)
(2)
私が〜と話したが、友達は誰も信じなかった。
私が〜と話したが、友達は誰も信じられなかった。

×
日本語母語話者の直感では、当然上記のようになります。
ご質問の意図は、なぜ(2)がNGなのかと学習者さんから尋ねられたら、
どう答えたらよいかということでしょうか。

まず思うのは、『信じられなかった』と可能形になっていることが不適なのではないかということです。
自分の行動に関して可能形を使うのは、問題ないにしても、
『他人の行動』に可能形を使うのはおかしいのではないかということ。

となると、次の文のように、例えば『ようだ』をつけると、おかしくなくなるように思います。
私が「一億円当たった。」と話したが、友達は誰も信じられなかったようだ。
私はこの文はOKだと思うのですが、
私を含まない10人の人に上記の文をおかしいと思うかどうか尋ねてみました。
その結果、6人がOK、4人がNGでした。
うーーん。まず、この結果に困っていますが、
それでも、「(2)では可能形が使ってあることがおかしい。」と、思います。

因みに、上記10人の方に(2)をおかしいと思うかどうかお尋ねしたところ1人がOK、9人がNGでした。

では、どんな場合にも『他人の行動に可能形を使うのはおかしい』かどうか?
昨日私の家で、誕生日会をしました。
でも、電車が遅れて、誰も約束の時間までに来られませんでした。
山田さんのお子さんは、入学試験に合格できませんでした。
上記のような場合は、可能形を使ってもOKだと思えます。

一口に動詞と言っても、『信じる』は、人間の脳の活動を表す動詞です。
本人が明言しないかぎり、他人には分からないことです。
そういう特殊な動詞が可能形になっていて、
かつ、自分ではない他人が主語になっていることに問題があるように思いますが、
まだまだ新米さんのご意見も視野に入れて、
今後例文等との出会いの中で、更に考えていこうと思っています。

中 国
日本語歴:4年
57
中国人の留学生です。
ずっと理系(細胞生物学)を勉強しているので、
日本語はかなり適当に話しています。
奇想天外の質問であるかもしれないが、
普通に、「○○(生き物)がいる」或いは
「××(非生物)がある」と言っているが、
両方ともいっしょに言いたいときはどう言ったらいいでしょうか。
【「○○」と「××」がある】か、もしくは【「○○」と「××」がいる】か、
教えていただきたいんです
奇想天外なんてことないのですが、もっと一般的な例でご説明します。

「私の庭には、木がある。」「私の庭には虫がいる。」を繋げると、
「私の庭には、木があって虫がいます。」となります。

オレンジ
日 本
56
日本語のテキストの中の会話例で 気になったものがあります。
《会話》
A
B
A


ただいま。
おかえりなさい。遅かったですね。
ええ、今日は友達とカラオケへ行きました。
・・・ (以下続く)
上記会話例の「遅かったですね」ですが、
私は当初、「Aさんはもう家へ帰りましたから、
過去形の「遅かった」を使っている」と考えました。
ですが、例えば、 いつもより早く会社へ来た同僚に
「おっ、今日は早いね」とは言いますが、
「今日は早かったね」とは言いません。
「同僚はもう会社へ来ました」から単純に考えると
「早かったですね」になってしまいます。
そこで「早いです」と「遅いです」の其々の時制で
以下のように例を挙げて考えてみました。
早いですね。
@ 一般的に朝早いということ
例)朝6時に散歩している人に「毎日 朝早いですね」
A いつもと比較して時間が早いということ
例)いつも11時に出社する人が今日は10時に会社にいます。
  「今日は早いですね」(×早かったですね)
早かったですね。
・・・何かの動作が行われたのがいつもより早い場合
例)いつも7時までかかる仕事が今日は6時に終わりまし た。
  「今日は早かったですね」(早く仕事が終わりましたね)
  「今日は早いですね」
  (仕事が早く終わって、いつもよりまだ時間が早いというこ と)
遅いですね。
@ 一般的に夜遅いということ
例)夜10時に帰宅途中の隣人に会って「いつも遅いですね」
A いつもと比較して時間が遅いということ
例)いつも5時に退社する同僚が今日は7時になっても
  まだ会社にいます。
  「今日は遅いですね」(×遅かったですね。)
遅かったですね。
・・・いつもより何かの動作が完了したのが遅い場合
例)いつも6時に帰る夫が今日は8時に帰宅しました。
  A「今日は遅かったね」
   (「帰った」あるいは「仕事が終わった」のが遅かったと いうこと)
  B「今日は遅いね」(いつもと比較して時間が遅いというこ と)
つまり、上記会話例の「遅かったですね」は
A の意味で使われており、Bの意味で使うなら、「遅いですね」も可能である。
ではどうしていつもより早く来た同僚に「早かったですね」 が使えないのでしょうか。
(これも「来た」のが早かったとすると、
「早かったですね」 になるはずなのではないのでしょうか・・・。

「今日は早かったですね」と聞くと、もう朝ではなく、昼休みか何かの時に
「○○さん、今日は早かったね。どうしたの?」と
その朝のことを振り返って話して いる感じがするのですが。
いつも回答を書いているときに思うことなのですが、
私の意見を述べることは、即他の人の意見を否定していることではありません。
考えている状況が違うこともあれば、状況は同じでも意見が違うことは多々あると思っています。
そしてその違いを、どちらが正しいとか決める必要もありません。
いろいろな意見を出すことが大切だと思っています。

いつだったか、グループで遊びに行ったときのこと。
私は集合時間が30分遅くなったことを忘れて、出かけてしまいました。
自分が一番早いと思ってやってきた幹事さんは、私を見て目が丸くなりました。
「早かったねぇ。どうしたの?」
この場合「早いねぇ。どうしたの?」でもよかったと思いますが、
「早かったねぇ。」にも違和感がありませんでした。

もちろん、おっしゃるように過ぎ去ったことを『た形』で表現するのは、極めて自然です。
ですが、私は今起こったばかりの状況でも「早かったね。」もありえると思っています。

伊藤みどりさんのジャンプを見て、解説者とアナウンサーが叫びました。
「高かったですね!」
「高かったです!」

もちろん例外もあるかもしれませんが、
「早いですね。」「遅いですね。」「高いですね。」等より、
「早かったですね。」「遅かったですね。」「高かったですね。」等の方が
予測しなかったことが起こった場合の感情の発露があるように思います。

「今日は暑かったですね。」は、もちろん夕方になって振り返っての発話です。
昼間だと『暑い』という状況が続いていますから、「今日は暑いですね。」となります。

siburukurubusi
日 本
55
「昨日は何もしないで、ずっと寝ていました。」の「しないで」は
「しなくて」に置き換え可能でしょうか。
文法的には誤りだと思いますが、日常生活の中で、
特に若 い女性が使っているような気がします。

これは、「違って」を「違くて」と言ってし まう流れと同じ種類の誤用でしょうか。
A:「昨日はうちにいた?」
B:「ううん、昨日はうちに (いないで/いなくて) 、買い物に行った よ。」
のように、主に会話内で使われているような気がします。

この質問はみんなの日本語34課の授業中に出たものです。
私は置き換え不可にしています。
「昨日は何もしないで、ずっと寝ていました。」
「昨日は何もしなくて、身体がなまってしまいました。」
付帯状態
原因・理由
  注:「昨日は何もしなかったので、身体がなまってしまいました。」の方が一般的 
『違って』を『違くて』と言う流れかどうかは、例文を示していただいていないので何とも言えません。
「ううん、昨日はうちにいないで、買い物に行ったよ。」
「ううん、昨日はうちにいなくて、小包が受け取れなかった。」
付帯状態
原因・理由
初級の段階では、本則を骨太に指導して、
許容に関しては、とりあえずNGにした方が混乱が少ないように思います。

セ パ
日 本
54
学生からの質問で、『ものとする/こととする』
はどう違うのかという質問がありました。
辞書で調べてとりあえずは、
『ものとする』「責任を負うものとする」
(もの:形容名詞、契約書などに使われる)
『こととする』
「テストを受けてみることにする」
(こと:形容名詞、どんな事柄かを限定する)
と答えたのですが、もっとわかりやすくはっきりした回答をしたく、御相談差し上げました。
『ものとする』 『公的な意味を持つ約束事、決まり等』を表す。
『こととする』 『自分の意思で決めたことである』の意味で、
『ことにする』より文語的で硬い言い方。
でどうでしょうか。

サリー
日 本
53
塾講師をしています。
「あなたが次世代に残したい自然環境について、その具体例と意見を述べよ」
の条件「作文」で、生徒が冒頭に持ってきた一文です。
この一文の後に、「環境破壊などがあるからです。」
とかいう一文が加わります。

私は「熱帯雨林が失われるという事は、とても恐ろしい事だと思います。」
の方がいいのではないか、と思うのですが、きちんとした説明ができません。

私の頭の中で、「失われる」=「事」はつながるんですけど、
「熱帯雨林が失われる」と長くなると、「事」に結びつきづらいのです。
一旦「という」という(日本語のおもしろいところですね;)
強調する助詞の連語(?)を入れるとすっきりする、
という解釈でいいのでしょうか?

後半の部分については、生徒が敢えて「恐ろしい事です」と
断定して書きたかったかもしれないから、「間違い」とは言えないだろうし。
論説文などではなく作文だから、「〜と思います」の方が良い。
なんて説明で良いのでしょうか??

よろしければ、ご意見を伺いたいと思います。
「熱帯雨林が失われることは、とても恐ろしいことです。」と
「熱帯雨林が失われるということは、とても恐ろしいことだと思います。」
の違いについて、考えてみましょう。

まず、『〜といいます』の用法についてですが、知人に電話をかけたとします。
知人本人が電話にでたなら、「○○です。」
面識がない、知人の家族が電話ででたなら「○○といいます(申します)。」
つまり、話している相手と共通認識がない場合に『〜といいます』を使います。

「これが生け花です。」と「これが生け花というものです。」の違いもお考え下さい。

「熱帯雨林が失われることは、とても恐ろしいことです。」
話している対象が、『熱帯雨林が失われることが恐ろしい』という認識を
持っている、あるいは持っていると推測できる場合はこちらになるでしょう。

「熱帯雨林が失われるということは、とても恐ろしいことだと思います。」
話している対象が、『熱帯雨林が失われることが恐ろしい』という認識を
持っていない、あるいは持っていないと推測できる場合はこちらになるでしょう。

筆者がどうであったか分からないのですが、違いはこういうことだと思います。

ハ ナ
日 本
52
「パーティーに行くことにします(行くことにしました)」という文で、
「パーティーに行ったことにします(行ったことにしました)」と
「〜こと」の部分を過去形にすると、
突然「行った」事実は無かったことになってしまい、
否定形を使わずにどうして話が逆転してしまうのか、
納得のいく理屈が見つからず困っています。ご意見をお聞かせ下さい。
私は、『〜になります』『〜にします』という文型の『に』は、『変化の結果を表す』としています。

何が何に変化したかと考えると、次のようになります。
「パーティーに行くことにします。」の場合、行くか行かないか未定→行くことに決定。
「パーティーに行ったことにします。」の場合、行かなかった→行ったとみなす。

『行くことにします』も『行ったことにします』も、『行った』事実はありません。

ハ ナ
日 本
51
「〜ことにします」と「〜します」の違いは、ズバリ何でしょう?

たとえば「パーティーに行くことにします(行くことにしました)」と
「パーティーに行きます」では、
意味的には違いが無いように感じるのですが、どうでしょう?
これは「パーティーに行く」を名詞的に使うか
「パーティー」のみを名詞として使うか、
その文法上の違いだけなんでしょうか?
「パーティーに行きます。」は、ただ単に『行く』という行動を述べています。
「パーティーに行くことにします(行くことにしました)。」は、会話の前後関係によって違ってきますが、
例えば、「行こうか、行くまいかと迷ったけれど、
パーティーに行くことにしました。」といった、心の動きが加わります。
『意志にもとずく決定』という表現を使う人もあります。
文法上の違いだけではないと思います。



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